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地の塩社ストーリー

地の塩社ストーリー

1975-1980【昭和50年-55年】

創業にあたり、最初に手掛けたのが、粉せっけんづくりです。

当社の現在につながるすべての原点がここにあります。

当初、先代社長が勤め先をやめたときの退職金以外の資金無し、販路無し、経験無しの中で、当然工場などつくる余裕はなく、貸し倉庫での営業開始となりました。仕入先から調達した粉せっけんを貸し倉庫で詰め替えて出荷するといった状況です。

 

やがて、小さいながらも液体せっけんを作る200リットルの釜が手に入り、そこで、台所用液体せっけんと、石けんシャンプーを製造できるようになりました。土地を借りてその上に小さな倉庫兼工場を建て、営業開始。当然、釜での製造以外はすべて手作業です。防腐剤も酸化防腐剤も含まないいわゆる「無添加」の透明容器に詰められた、紅茶色の液体せっけんは、見た目も美しくいいできばえでした・・・・

しかし、できたての液体せっけんは、日を追うごとに赤みを帯びていき、やがて、きつい石けん臭を伴い「商品」ではなくなっていきました。ある当時の取引先では社内運動会の景品に使いましたが、だれももらいたがらなかったそうです。これは、明らかな酸化によるもの。また、透明容器故の紫外線の影響も考えられます。

試行錯誤の結果、原料の脂肪酸のグレードを上げ、不純物を少なくし、容器は、白の容器、若干のpHをあげることにより対処しました。香料も添加しました。

 

経営状況が思わしくなく支払いも滞りがちであったその頃、ついに粉せっけんの仕入れ業者から取引中止の連絡がありました。そして、時を同じくして工場の敷地を娯楽施設の駐車場にするため、立ち退きを求める土地の所有者の連日の申し入れが始まりました。倉庫兼工場を建てて2年しか経過していませんでした。

1980-1982【昭和55年-57年】

 それほど離れていない場所に借り倉庫が見つかりました。ある団地の隅にある倉庫は結構広いスペースで、2階もついていました。

 別の粉せっけんの会社も見つかりました。その会社は、県外にあり、石けん工場を辞めるということで、その工場を借り受け、宿泊しながら石けんを作りにその工場に出向きました。そして、当社でも石けん作りのノウハウを蓄積していきました。石けん素地を作り、その素地を山鹿の倉庫まで運び、乾燥させて、中古で購入した小さな粉砕機で粉砕し、粉せっけんにして、袋につめて出荷しました。このころ、地元の生協の前身になる取引先とも知り合いました。

 やがて、辞めるつもりの会社の社長から、機械を購入して、早く出ていってほしいとの申し入れがありました・・・・・しかし引っ越し資金がない・・・・・

1982-1985【昭和57年-60年】

 幸運なことに、ギリギリのところで、その生協との石けん運動で、モノが動き始めました。ここで、決断。なけなしのお金をつくり、田んぼのど真ん中の土地を購入し工場建設が始まりました。今は老朽化している鹿本工場です。当社オリジナル設計による連続鹸化方式で、流れるように石けんができていきます・・・筈でした。

 試運転の日、回収してきた天ぷら油等の廃食油と、苛性ソーダを混合し、ボタンを押しました。勢いよく配管を通って、混合物が石けんになっていくと思った瞬間、轟音とともに、その配管から、熱い液体があたり一面にマグマのように広がっていきました。

 オリジナルは、やはりオリジナル。低予算で、できる限りの知恵を使い机上の計算による大失敗です。その試運転の日から、工場の掃除が始まりました。連続鹸化装置は、ただの邪魔な物体となり果てました。

 しかし、釜は生きています。釜炊きによる普通の鹸化法による石鹸作りが始まりました。液状の石けんを乾燥させる機械がなかったので、手作業で袋にとりわけ、工場のあいたスペースにひろげて乾燥させる工程が大変でした。梅雨になると、石けんが乾燥しないのです。

 売り上げは、徐々に伸びていきました。石けん運動が盛んになるにつれ、応援してくれる人たちに支えられるようになりました。

1986【昭和61年-】

 山鹿に不動岩という大きな岩があります。その麓にあるみかん農家の土地を購入することになりました。そして、その土地の一部を宅地に変更し化粧品との研究施設と、事務所機能、液体石けんと化粧品の製造スペースをもった建物を建てました。(後のことであるが、リフォームした折に、柱の寸法が足りなかったのか柱に木片を継ぎ足してあった・・・)そして、資本金300万円で、株式会社を設立。商号を「地の塩社」としました。

 ところで、その建物の裏の土地にはにみかん畑がありました。そして、そのみかん畑ににわとりが、300羽ほど出現しました。朝になると、おんどりの「コケコッコー」の大合唱がはじまりました。地の塩社「農園部」の立ち上げです。つまり、鶏は、草や虫を食べて、フンをします。そのフンは、堆肥となり、みかんの木に養分を与えます。そして、甘いみかんが秋には収穫できるという算段です。循環型農業の実験地と化したのでした。秋には、地元の生協の組合員様方にお声掛けして、その鶏の群れと、みかん畑の中で、「シンポジウム」と称して環境を考える催し物が開かれるようになりました。

 

続く・・・

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